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私は昔から、生き物や自然の観察が大好きだった。
夏休み、毎日雲のスケッチをして雲の名前を調べたり、
社会人になってからも、スキューバダイビングで魚の観察をしたり名前を覚えたり。
そんなことが好きなんだけど、昔から、
「名前なんか、人間が勝手に決めただけで、
カエルウオは自分はカエルウオという名だとは知らないし、
名前を覚えたところで、それはものの本質ではない」
と、よく思っていたし、時々周りにいる人に言っていた。
子ども達にもこれまで何度か言っている。
鶏は、自分は人間に鶏と呼ばれているとは知らない。
別に、「鶏」は「猿」と呼ばれたとしても、何とも思わないだろう。
でも、自然の中で、自分を取り巻くものの本質は知っている。
自然の中の生き物は全てそう。
自分がなんと呼ばれているかなんか知らんけど、
周りの生き物が自分とどういう関係か、は、感じているだろうし、
それで十分だし、むしろそれが大切だと思う。
別に、名前なんかどうでもいい。
私も、私の周りの生き物のように、
名前じゃなくて本質を理解したいと思う。
それは、私が人の名前をなかなか覚えられない理由(言い訳)にも繋がってるんだろうな。
名前なんか人間が勝手に決めただけで本質ではない、と思いつつも、
やっぱりそれは覚えておいた方が、学びが深まって楽しくなる、とも思う。
こうやって毎日鶏の世話をしていても、
鶏は自分が鶏と呼ばれているとは知らんよな、
自分を名古屋コーチンだとは全く認識してないやろうな、
と、アホなことをどうしても思ってしまう。
どうでもいいようなことやけど、
どうでもいい訳でもない気もするし、
ずっと昔から感じていたことを
急に書いておきたくなった。
鶏に名前を付けることに無関心なのは、
こういう考えが私の中に根強くあるからかもしれないな。